鈍いナイフ
「ここからならホドが見渡せるから。それに――約束したから」
セレニアの花の向こうから――赤い髪をなびかせて、一人の男がやってくる。
予期せぬ来訪に、目を見開く人々。
涙と歓喜の笑いを浮かべて駆け寄ろうと踏み出したそのときに、気がつく。
なぜ? どうして進めない?
進んではならないような気がする。
言葉は口を突いて出ようとして喉の奥で凝ってしまった。
なぜ? どうしてその名で呼んではならない気がするのかしら。
彼の名前を、彼の名前を、彼の名前を! 呼びたいのに!!
自分以外の誰かが呼べば、自分も彼を呼べるかもしれないのに!
どうして誰も、彼の名前を呼ばないの!!
「あれ?」
落ちた前髪を掻き揚げつつ、彼は言った。
「なんだ。もう気付いちゃったの? なーんだ、つまらないな」
彼の声で、彼の口で、彼は一体何を言うの?
私にはもう、わからない。
「あなたは――一体誰です?」
厳しい口調でジェイドが聞いた。
「さて、だれでしょう。少なくともルークやアッシュじゃない。けど、残念だな。せっかく彼らの記憶を元にルークになってみたのに。こんなに早く見破られるなんてね」
「あなたは」
「怒るなよ」
声を震わせたジェイドに、その感情を逆撫でするようにひょいと肩をすくめて見せる。
「ねえ、ルークが帰ってきたと思った? 嬉しかった? そうだよね。そこの彼女、泣きそうになっていたもん。それとも、アッシュが帰ってきたと思った?」
そうして首を動かし見つめる先にはショックを受けているナタリアが。
「どっちが帰ってきても素直に喜べないくせにさ」
「あなたは、一体誰です!」
とうとう声を荒上げたジェイドにも、彼はナタリアに向けたままの表情を向ける。
それからおもむろに嘲笑を篭めて笑いを上げた。
「ははは、あんたが聞くの? 今、あんた達が俺を殺したのに?」
「どういう意味なの?」
「言ったままだよ」
「どういう意味なのよ!!」
堪えきれずにティアが叫んだ。
「どういうも何も、言ったまま。ルークにもアッシュにもなれたかもしれない俺を、否定することで今、殺した。俺はルークでもアッシュでもあったんだ。さっきまでは。どっちにもならないうちに、あんた達が否定した。だから俺は俺になった」
「まさか」
「何でそんなにショック受けるかな。あんた達、二年も前にきちんとアッシュもルークも殺したじゃないか」
「どういう意味よ、それ!」
「これもまた、言ったままの意味さ」
噛み付いてくるアニスにも、変わらない態度で嘲笑する。
「愚かな軍人、役に立たない護衛剣士、主殺しの導師守護役。盲目な皇女、そして恥を知らない誘拐犯」
その言葉が、彼らから言葉を殺す。
「元からありもしなかった信頼を取り戻そう何て馬鹿な話だったんだ、ってことだよ。もう仲間の面した偽善者達に付き合うのはうんざりだって。今頃音譜帯辺りでも漂っているんじゃないの?」
あははははは、と渓谷に響く声高な嘲笑の声。
立ち尽くす人々の間を通り抜け、彼は一人で、渓谷の出口へと向かっていった。
誰も、後を追えやしない。
あれが誰であるかなど、もはや関係ないことだった。
彼らは己の行動で、ルークと、アッシュの、その心を、失ったのだ。
取り戻せる機会はもはや無い。
無知であった。
愚かであった。
高慢であった。
その罪の罪科を、彼らは唯一の存在の喪失によて支払わされる。
彼らの姿が見えなくなった頃、二人の焔の姿を模した誰かに、寄り添って歩く影が生まれる。
彼らは互いの歩調に気を配りながらもただ黙々と渓谷を進む。
「随分悪趣味なんじゃないの〜?」
後から加わった影が口を開く。
その言葉に、焔の姿を模した誰かは不機嫌に言葉を返す。
「知ってる」
そう答えた直後、焔の姿を模した誰かは淡く光を発し、違う誰かに姿を変える。
性別すら違う。
そこにいたのは焔たちとは似ても似つかない黒髪の、一人の女性だった。
「アーヴァイン、彼はどうしてる?」
「ああ。記憶が無いのは確かみたいだね。封印しちゃったのかもしれないけどさ〜」
「そう」
早めるでもなく、淡々と渓谷を下る。
その出口に差し掛かったとき。
「キリエ?」
アーヴァインが女性の名を呼んだ。
「なに」
「随分不機嫌だね。あれだって、君の八つ当たりじゃないのかい?」
「そうかもしれないわ。でも知らない。結局彼らの待つ人間が帰ってこないのは事実だもの。肉体の命についてはある程度は仕方ない。けど、何度も彼らの心を切り裂いていたのは彼らであって間違いない。許せる気分じゃなかっただけ」
「まあいいけどね」
何処に本心がるのか分らないそんな声音で男は言った。
「彼、どうする?」
「記憶が無いならガーデンにつれていきましょう」
「名前は? ルークって呼ぶつもりかい? それともアッシュって」
「……いいえ」
じゃあなんて?
と聞かれてはじめて女は足を止めた。
「――ルーアッシュ」
「単純だね」
「うるさい」
「ま、いいんじゃないの〜」
くっくっくっ、とキリエのあまりの単純さに笑い声を上げながらアーヴァインは渓谷を下る。
数秒送れてキリエも続いた。
新しい仲間を迎え入れる、そのために続く道を。
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