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深淵に見る箱庭の定義――3
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「観念するんだな。爪の先まできれいに金に変えゲコッ」 目の前には驚愕する少年、足元にはやわらかい感触。 一発で状況は分ったけど、あえて理解はしたくないな。 特に足元の面倒ごとは。 ああ、でも。 「平和だ」 目の前で目を見開く少年には悪いが、本当にそう思う。 だって銃弾も飛んでこなければ白刃が舞ってもおらず、多分ぎりぎりのタイミングだったんだろうけど、まだ血も流れていないじゃないか!! これを平和と言わずになんと言う。 何が飛んでくるか分らないという状態に対して私の肩に手を置いたまま気を這っていた二人の男の体からも力が抜けた。 「今回は、これでおわりかな?」 多少の警戒を残しつつも、私の肩に乗せた方とは別の手が触れていた武器を手放す。 「そうみたいですよ。この、キリエの足元の男の人が剣を持っている。そして目の前には無力っぽい少年。なんか不穏な台詞も聞こえていましたし、今回の争乱はきっとこれのことでしょうね」 ああいいんだ。 それならいいんだ。 ああすばらしきかな異界の大地よ。 剣戟の嵐も銃弾の雨もなく、まして燃え盛る火と呪いの海の中でもなく。 私は喜びを表そうと忘れていた呼吸を思い出し、大きく息を吸い―― 「――ケホッ」 膝を突いて喀血した。 「キリエ? キリエ!」 眩暈がする。 ぐらぐら揺れて、だんだんと霞んでくる視界に入る吐き出した血は、肺直通の鮮血の赤。 吸い込んだ息に肺を痛めつけられて、上手く息が吸えない。 苦しい。 呼吸困難だ。 私を呼ぶ二人の声が、遠い。 それでも息をしなければ窒息する。 短く、浅く、引き連れのような呼吸を繰り返す。 吸い込む大気に、はっきりとした違和感を感じる。 空気に混じって肺から入って、血液に乗って体の中を侵していく。 なにこれ、何これ、なにこれ!! こわいこわいこわい、怖い!! 何で人間が普通に暮らしている大気に猛威を振るわれなければならないのか。 アーヴァインもフィールも平気そうなのに!! 痛みに意識が散って、上手く念も練ることができない。 それだけでも出来れば、随分と違うのに。 震える手で、必死にポーチに手を伸ばす。 ぶつけてもいないのに内出血でぼろぼろだ。 ひどい、腐れかけたゾンビみたいだ。 私の行動に意図を察してくれたのか、アーヴァインが四次元ポーチから薬を取り出して私の口に含ませる。 あふれ出る鮮血と共にそれを飲み下し、痛みから解放されたショックで私は――意識を失った。 それほどの痛みを感じていたのだと、意識を失う瞬間に、気がついた。 血の絡まった息をするキリエをとりあえず抱き上げて、フィールは考えた。 むしろ途方にくれた。 意識のない人間の体は重いなぁ、と思うのは現実逃避だ。 肌の見えるあちこちに浮かんでいた内出血の後も、飲ませた念具の回復薬のおかげですっかり消えたが、こうやって呼吸を繰り返すたびにまた増えていくのだろう。 真っ先に症状が出たのが肺であることといい、自分も空気が合わない気がすることといい、この世界に満ちる大気が原因でほぼ間違いないだろう。 確かに呼吸は苦しい。 吸っても吸っても酸素が入ってこない気はする。 喉がざらついて咳っぽいが、喀血するほどではない。 吸い込む息を通して、何かが体の中を巡る。 肌を通して僅かに何かが進入してくる。 特異なほどの活性を誇る体が、それに適応しようとしているのが分る。 「これは、拒絶反応――かな?」 アーヴァインが自らの喉をさすりながら言う。 一体この空気に自分たちの知らない何が混じっているのか知らないが、随分と極端な反応が出たものだった。 目の前で腰を抜かして自失している少年がまったく平気そうに見える事からも、この何かは、この世界にとっては当たり前のもの、あるいは酸素のように必要とされるもの、なのかもしれない。 とにかくだ。 軽症の自分達だからこその余裕であるが、GFや、念――オーラというものによって自己活性している体は、食物アレルギーを克服するようにこの大気に混ざる何かに、体を適応させようとしているのが分る。 ごく僅かづつではあるがゼロではなく。 いま必要とするのはキリエを休息させることが出来る場所だ。 定期的に念具の薬で回復させながら、体が馴染んでいくのを待つしかない。 今回の辿り着いた場所にあった騒乱が、たいしたものでなかったことが、心底ありがたい。 キリエの顔に散った血をハンカチでぬぐい、フィールに抱き上げられている体にアーヴァインは自分のコートを脱いで掛けた。 これで表面上血は見えない。 その上で、彼は目の前で自失している少年に目をつけた。 自分達は今、町の名前一つ知らない不審者だ。 目の前の少年なら、暴漢から助けたことを出しにすれば少しは脅しも効くだろう、と。 「ちょっと聞きたいんだけど、近くに彼女を休ませられるような宿はないかな」 顔を上げた少年の瞳が焦点を結び、アーヴァインの姿を捉えた。 「あ、彼女は――」 「長患いの持病でね。大丈夫、感染性はないよ」 どこまで医療技術の進んだ世界かは分らないが、彼女のあのときの様子を見れば誰でも恐れたくなるような病だろう。 あれがうつると思うと――。 「そ、そうですか」 「それで、紹介してもらえるかな」 言って、アーヴァインは少年の手のひらに赤い石を握らせた。 綺麗なカットの施された、真紅の紅玉を。 何時どこの世界でも、効果はてきめんだ。 少年に握らせたルビーの力で、彼らは右も左も分らない町の中で早急に宿を得る事に成功していた。 世界を跨げば価値を失ってしまう通貨より、こういったものの方が利便性は高い。 この星になんと名前が付けられているのか知らないが、世界を跨いでも同じような価値があったことに感謝だ。 少し大きめのものを握らせれば、多少の不審にも突っ込まないでいてくれる。 三人部屋の一番窓から遠いベッドの上に寝かされたキリエはまだ意識が戻っていなかった。 袖をまくって、ぐっと力を篭めて押すと、すぐに内出血が広がる。 血管もなかりもろくなっている。 四肢や末端の血管が切れたくらいなら構わないが、脳内の血管もこの脆さならかなり危うい。 揺すり起こすことも出来ない。 目が覚めたらタブレットタイプの念薬でも含ませて、飴のように溶かしながら少しずつ服用していけば大丈夫だろう。 けど、いまは絶対安静だ。 引き寄せたイスに座って、アーヴァインは息をついた。 フィールは情報を集めに行っている。 先ほど助けたことになるのだろう少年をひっ捕まえて、初めての都市観光を装って。 ニーダほど影が薄いわけではないが、割と平凡を絵に描いたような男だ。 上手くやってくるだろう。 ぶっちゃけそのあいだ、こんな状態のキリエをほうっておくことも出来ず、何もすることがない。 いや、出来ることがない。 毒ではないが体を害する空気中に含まれているらしき何かに体が適応する速度は変えようがないし、チップに出来るような小銭もない。 外に出たフィールが帰ってくるまで、金持ちの一文無しという矛盾した存在だ。 いやまて。あれからもう一時間は経った、と、アーヴァインは四次元ポーチを確認した。 案の定、見ず知らずの硬貨がばらばらと出てくる。 異世界旅行組み三人の所持する一見皮製のただのポーチは、キリエの念によって作製された念具だ。 無限の収蔵量を誇る内部は三つの内部を共有している。 その上オーラ認証型で、キリエの設定したオーラを持つ人間にしか使用できないという小細工までされている。 その中身が増えたと言うことは。 「無事に換金できたらしいね」 額面は数字で確認できるが、単位が分らない。 宿を借りるときもまだこちらの通貨は持っていなかったから、一家で宿を経営しているらしき親父石を一つ握らせてそれで借りられるだけ部屋を借りた。 宿帳に記入している親父の背後にあるカレンダー、日にちが五十八日あって驚愕した。 月も十三あるらしい。 自分たちの世界から見ると二倍近い長さだ。 一年が二倍あって、年齢を数えるのは一年に一回ずつ。 それでもこの宿の最高齢らしき老人は尋ねたところ八十二を数えるといっていた。 このあたりでは稀に見る長寿らしいが、それだけ生きる可能性があるということだ。 単純に考えてこの星の人々は自分たちの二倍の寿命を持っている。 もし、老化を止める手段を持たずにこの世界に来ていたら、自分達はこの世界の人間の二倍の速さで老いて死んでゆくことになるのだろう。 内心でぞっとした。 はじめて来た時に少し話したところ、宿の主の男は今年で四十歳になると言う話だった。 こちらでの四十年は、自分たちの世界に換算すると八十年にもなる。 それなのに、元の世界の中年親父と、その内面もまったく変わらないように思えるのだ。 膨大な時間に対して生の内容が薄い。 ここに来るまででも見たとおり、武器屋がごく当たり前に存在して、人はごくあたり前に帯剣している。 命のやり取りがずっと身近な世界のはずなのに、精神の成長が未熟、なような気がするのだ。 二階の部屋に案内されるときには「ユリアの加護がありますように」意味が分らなくて悩むような顔をしたら「悩み事があるのなら予言を読んでもらうといいですよ」と来た。 「予言の通りに生きていれば、人生に間違いなんてないんです」と、やけに晴れやかに言われてしまう。 とりあえず当たり障りのないように「ああ、そうするよ」と言って引きこもったが。 “予言”を読んでもらい、“予言”のとおりに生きる? 正直アーヴァインにもフィールにも、分りかねる世界事情だ。 予言と言えば真っ先に思い浮かぶのはやはり占いだが、良し悪し含めて人生の参考程度にはしても、それにしたがって生きよう等という気は到底起きない。 その“予言”とやらが、人生に対してどれほど正確なのかは知らないが、あらゆる決定をそれに任せて生きていると言うのなら、人が成長しない理由もそこに見ることが出来るだろうか。 自分で決めなくてもいいというのは、とても楽なことだ。 水が高きから低きへ流れるように、人も苦よりは楽に流れたがる。 それがこの世界の人々であるのなら、長い時間にどれほどの意味があるのだろうか。 「なーんか、歪な世界だよね」 思索にふけっていたアーヴァインは、思考の流れをせき止めるようにわざとらしく呟くと立ち上がった。 とりあえず額面の大きそうなのを数枚握って部屋を出る。 キリエのために何か柔らかい物でも作ってもらおう。 ついでに自分のための食事も。 服は、フィールがきっと買ってくるだろう。 この世界に合わせた服を。 ちょっと見ただけでもトレンチコートとテンガロンハットで出歩けばそこはかとなく浮いてみえるだろうし、キリエの服にいたっては血まみれだ。 高度な念をかけられた防具でもあるから処分することはしないが、洗ったところでデザインの問題でこっちの世界では着られない。 それなりに物騒な世界ではあるが、人間は普通に人間のようなので、特に問題はないだろうと思う。 拳骨一発星をも砕く、と言った超常人間は身近には居ないようでもあるし。 当分はアクセサリなどの小間物の念具で十分だろう。 所持品を売るだけでなく、自力でこの世界で収入を得られるようになって、余裕があればこっちの世界の装束に念をかけて防具にすればいい。 帰るときには効果込みの値段でうっぱらって、また貴石や貴金属に換えて持ち帰れば経済的だ。 いつかのように、所期の資金は念具を販売することで稼ぐのもいい。 良く効く薬に未知の道具。 裏でも表でも、それこそどんな値段をつけても売ることが出来る。 高血圧まで治るのかどうかは知らないが、内臓疾患や重症の外傷、俗に言う不治の病や、命の瀬戸際の傷も癒すことが出来る。 喉から手が出て足が出ても欲しがる者など幾らでもいるだろう。 先の展望が見えて、少し足音も高くアーヴァインは階段を下りていった。 目が覚めたキリエは、とっさに起き上がろうとして、やめた。 起き上がろうと意識した瞬間には、普段の訓練の賜物で円を展開していて、周囲二十メートルには危険な意思はないと判断した。 とっさに起き上がろうとしたのをやめたのは、意識を失う直前の状況を思い出したからだった。 触れてもいないのに広がる内出血、血の絡まる音のする呼吸、全身の細胞が上げる叫び。 あの時のように、大きく息を吸ったいしなければのた打ち回るほど痛くもないが、浅くでも息を吸うたびに肺が傷付けられる。 呼吸に混じる鮮血の香り。 口に広がる鉄錆びの味。 一気に広がるようではないが、すでに全身のさまざまな場所が痛い。 一度は全てを癒す薬を口にしたのに、すでにこの有様。 とりあえず、まだ腰にポーチがついたままだったので、自力で薬を取り出して口に含んだ。 タブレットタイプの薬は、ゆっくりと溶けていって、体を癒す。 その隙を見計らうようにキリエは大きく咳をした。 背中を丸めて、喉を押さえて、口元にはハンカチをあてる。 気管に詰まる血を吐き出す。 鮮血の健康的な色が憎らしい。 瑞々しいものから固まりかけたようなものまで一通り吐き出して、丸めたハンカチはとりあえずまたポーチの中に戻しておいた。 後で捨てればいいし。というのがいけないのだとは分っているが。 時間があればゴミの整理もしなければならないなぁ、とふと思う。 悪癖は承知のうえだ。 まだ日は高い時間らしく、開け放たれた窓から日差しが降り注ぐ。 その光は、くっきりとキリエの血にぬれたい服を浮かび上がらせた。 「うぇ〜」 呟く声にも、血の絡みが聞こえてなおさら辟易する。 防水、防油などの念もかかっているから、洗えば一応落ちるはずである。 異世界旅行の時にはとりあえずこれを着ていけば大丈夫、というくらい金を掛けた代物だったのだが、さすがにこのままでは着れまい。 だいたいが、この新しい世界の風俗に合うのかどうかも未知数だ。 アーヴァインの姿もフィールの姿も見えないし、何かしら調達してくるだろうと楽観して再びベッドに身をゆだねた。 ――なんだろうね、気絶した人は看護人がいない間に目が覚めるって言うのはデフォか? と、薬をなめつつもふらふらする頭で考える。 考えながら服のボタンをとる。 ベルトなどはくつろげられていたが、さすがにそれ以上は長い付き合いとはいえ恥ずかしい。 着替えくらいは何とかと思ってボタンに手を掛けるのだが、つまんでぐっと力を加えると指先の血管が破裂する。 破裂しては口にしている念薬の回復効果で治っていく。 「……きもちわるいよぉ〜」 泣き言を言っても聞く人間も居らず。 仕方なく黙々とボタンをはずす。 大量の内出血にぶよぶよとする肉。むくんだように腫れ上がっては治り、また出血を繰り返し。 世界からの圧力のせいで苦しんでいるわけではないようだった。 そうであれば、絶をすればそれこそ命息絶える。 世界に抵抗するために膨大なオーラを消費するゆえに、円を展開する余裕もない。 念は普通に使える。 時間が無いのであれば高度な念薬や念具を惜しげもなく使って回復を図るところだが、絶を使用し、おとなしく横になっていれば、貴重な念薬を使用せずとも何とかなるだろうと目処をつける。 争乱の最中になんか落とされなくても、異世界旅行はいつでも命がけだ。 もそもそととりあえず血のついた上着を脱いでベッドの下に散らす。 たたむ余裕もないキリエ。 替えの服も四次元ポーチの中に入っているが、着る時の事を思うと取り出すことも出来ずに下着姿のままとりあえず上掛けを肩まで引き上げた。 季節のめぐりがどうなっているのか知らないが、暖房器具などなくとも十分に暖かい。 あとこれで体のだるさや痛みさえなければ、すばらしい昼寝心地なのだが。 窓から飛び込んでくる生活音は健全ににぎやかな町であると言うことを示し、世界規模でどうなっているのかは知らないが局地的に見れば紛争、戦争と言うモノに巻き込まれているわけでもないようだった。 途切れ途切れに耳にはいる音、単語に、すぐにそういったものを示すものはいまのところない。 それどころか夕ご飯のメニューでも話しているのか、かしましい女性たちの会話の間には、聞きなれた名前がちらほらと並んでくる。 りんご、ライス、パンにチキン。え、なに? ブウサギの肉? 知らない食材なのに聞き覚えがあるような、危ない感覚。 ブウサギ。豚? ウサギ? 個人的にはソテーよりソーセージがいい。 あっちでリゾットこっちでロースト。 実においしそうな話題である。 アップルパイも付けてくれ。 思考が現実逃避しかけるのを自覚するキリエ。 なんといっても満足に体を動かすことすらできないのだ。 いままでそれこそ空の領域まで手に入れて自在に闊歩していた身としては退屈も極まれり、と言ったところか。 だがどれほどすばらしい回復薬を持っていても、脳内出血は致命的だ。 意識を失えば、回復することすら出来ない。 四肢の行動を制御する部位に損傷を来たせば、意識があっても薬を使用することが出来ない。 そのための仲間であるとも言えるが、無理はしないに越したことはない。 もう若くもないのだし。 ふと、思い立った。 これは、肉体的な損傷だ。 オーラの使いすぎでぶっ倒れるとか、魔力がうんたらとか記憶障害がとかそういった話ではない。 何を吸引して結果何が作用して体が悲鳴を上げているのかは知らないが、現れる結果は物理的な作用だ。 ならば。 リジュネで何とかならないだろうかと。 思い立ったが吉日よろしくキリエはポーチからリジュネリングを取り出す。 これはキリエの念具ではなく、某異世界へ行った時に手に入れたものだった。 効果はオートリジュネ。 付けている限りずっと、リジュネがかかり続けると言う代物だ。 そしてリジュネは、物理的な回復効果を長時間にわたって微小に発揮し続けると言うものだ。 これをつければ、損傷と回復が拮抗して飛んだり跳ねたりはともかく、普通に立ち上がって行動するくらいは何とかなるんでなかろうか? 早速そのリングを指に通し、口の中で転がしていた念薬を赤い唾でごくりと飲んで強制的に全快状態にする。 そして、待つ。 気分的なタイミングだ。 さっきまであれほど脆かった体を、リングの効果を知っていてもいきなり痛めつけるのは怖かった。 半分くらい自家呼吸じゃないかと言うような浅い息を繰り返したままの肺は、体が全回復した次の瞬間にはすぐに疼くようになったし、やはり頭はふらふらする。 それでも恐る恐る、キリエは横になったまま腕を目の前まで押し上げて、ギューっと拳を握った。 開いた手のひらをまじまじと見れば、さっきまではボタンをはずしただけでぶよぶよの内出血が広がった指先も、手のひらも、僅かなない終結を発生させたのみでまだ手のひらのように見えた。 損傷と拮抗する回復。 拮抗するかそれに僅かに少ない程度のようで、その内出血は回復の兆しを見せなかったが、ここまで軽度に出来るなら、少なくともトイレは自分で行ける!! 「希望だわ――」 呟きが漏れるのもいたし方のないこと。 年齢だけを見れば十分に介護されても不思議ではないが、中身も外見もぴっちぴちだったのだ。 仲間とはいえ二人は男だから除外するとして、この世界で人を雇って介護を受ける身の上になるのかもしれないと思うと切実に心が痛かった。 オムツは最後の砦だ。 喜びは自然とキリエに大きく息を吸わせ―― 「カハッ……っああ、もう」 耐用容量を超えた何かに、彼女は再び喀血した。 つくづく限度を知らない人間だ。 結局はおとなしくしているしかないと言うことなのだろう。 トイレに行ける、風呂に入れる、自分で着替えも出来る。 喀血はしたが、来たばかりのときのようにそのまま意識を失うようなこともない。 それだけでも喜ばねばなるまい。 息を吐けば吸わねばならないのでため息もつけないキリエ。 心のうちだけ出でも盛大にため息をついて、血濡れのシーツを引っ張った。 どうしようもない退屈を、結局もてあましながら。 キリエが倦怠感にさいなまされながら天井の染みを数えていると、扉の方から乱暴な音がする。 反射的に円を展開して、なんとなく知ったオーラを感じて安堵した。 物取りかと思った。 スコールのように羽虫一匹の生命エネルギーまで感知できてしまうような高性能な円も供えていなければ、それを処理できる脳みそも持っていないが、ごく普通に一般的なキリエの円でも、親しいものたちぐらいなら感じ取れる。 親しい者達――仲間のうち誰か、と言う事は分っても、円にかかったオーラで個人を特定することは出来ないのだが。 凝をしてみれば、さすがに個人の別もつくが。 とにかく、こっちの世界で仲間と呼べる人間なんて二人しかいない。 共にこの世界へ渡ってきた二人の男のどちらかだろう。 アーヴァインか、フィールか。 パターン的にフィールの方が初期の情報収集に向かうことが多い。 彼はニーダほどではないがものすごく一般人を絵に描いたような人間だ。 整った面立ちをしているが、逆に言えば個性が無いともなる顔だった。 内面、そして彼の念能力は十人並みからは一歩も二歩もはみ出しているが、スコールやアーヴァインから比べると、一般人のオーラをしている。と言うのがキリエの感想だ。 酒の席で本人に冗談交じりで言ったこともあるが、切なそうに笑うのみだった。 フィールが情報収集に行っているのなら、まだしばらくは戻らないだろう。 なら、この扉の外でもたついている気配はアーヴァインのものか。 普段の元気なときであれば扉の一つくらい明けに行ってやるところなのだが、キリエはたったいま再び喀血したばかり。 厄介な肺病ではないことは知っているが、喀血はものすごく精神力をそぐ。 退屈もあいまって、キリエの心は呆然と天井の染みを数えるぐらいにへなちょこに潰れていた。 立ち上がって行ったところで、この姿を見られれば逆に叱責されるくらいだろう。 今回の旅の仲間は二人とも、とても仲間思いの人間だ。 一人ちょっと愛する人間と居ると周囲を見るのを忘れるのもいるが、基本的にいいやつだ。 今回はその相方もいないし、ごく普通にいい人のはずだ。 一体何をもたついているのだろうかと、じっと扉を見つめるキリエ。 やがて開いた扉の向こうに見つけたアーヴァインの姿を見て納得した。 右手にはバランスの悪そうなお盆、左手には湯気を上げる桶。 「よっと」 「お帰り、アーヴァイン」 バランスを欠いたまま器用に足で扉を閉める。 バタン、と乱暴に閉まる音にすら懐かしさを感じるようでは末期症状だろうかと、思ってキリエは嘆息した。 そして後悔した。 「ただいまキリエ。良かったよ目が覚めたみたいで」 振り向いたアーヴァインが驚いたように目を見開く。 キリエは顔を真っ赤にして体を震わせ何かをこらえ――こらえきれずに喀血した。 「キリエ!!」 叫ばせてばかりでごめんなさい。 そう思うキリエの内心も咳き込むばかりで伝わりはしない。 ただ、背中をさすってくれる優しさに涙しかけ、大丈夫か、と聞かれない関係を築けていたことに安堵した。 社交辞令の大丈夫? はキリエも使う言葉だが、どう見ても大丈夫じゃない場面で仲間にそれを言ってほしくないと言う微妙な心境だ。 まあ、今はそれを聞かれたところでまともにしゃべることが出来ないが。 「キリエ、キリエ落ち着いて。ゆっくり短く息をして。血は飲み込まずにちゃんと吐き出して」 口元に添えられるハンカチ。 それに向かって肺の奥からこみ上げる血の塊を吐き出した。 そしてげっそりとした表情でアーヴァインを見上げる。 「アーヴァイン〜〜」 ひくりと引きつる彼の顔に、何か正体不明の反発を覚えるキリエ。 それを反芻する前に、口に薬を投げ込まれた。 ごくんとそれを飲み干すと、また隙なくたっぷり濡れたタオルを口元に押し付けられる。 「キリエ、口の周りが真っ赤でまるで人を食べた後みたいだよ」 「笑って言うんじゃ無いわよ、このやろう」 というキリエは笑っている。 渡された濡れタオルでごしごしと顔を拭き、手を拭き首を拭く。 返すと絞りなおしてくれてまたごしごしと。 時間がたった血液が凝固してなかなか取れないのだ。鏡もないので確認のしようもない。 ごっしごっしと男気たっぷりに顔を拭いて、アーヴァインを振り返った。 「取れたかしら?」 「まあ、そこそこかな? 髪にも付いちゃってるし、折を見て一度流した方がいいかもね」 キリエから受け取ったタオルを中にほうるアーヴァイン。 くるくると弧を描くタオルはするりと端から桶の中に入っていった。 水滴の一滴もこぼさずに。 「お見事」 「それほどでも」 「ありがとう」 「どういたしまして」 脈絡のない会話に、くすりとどちらからともなく笑いが漏れた。 「調子はどうだい?」 「決して大丈夫とは言わないけど、これ見て」 リジュネリングをつけた指を見せる。 ほう、と納得の表情を見せるアーヴァイン。 「何が原因でこうなるのか分らないけど、現れている現象が物理的な損傷なら、これで相殺できないかなって」 「それで、効果の程は?」 「ぼちぼち。見ての通り、深呼吸すると喀血するけど、念薬も時々併用していけば会話や、日常生活には問題ないと思うわ。念も使えるしね。普通に息をしている分には、肺が引き絞られるようだけど喀血はしないし、黙っていても内出血ってことはないわよ」 ぎゅっと手を握って、平を見せ付けるように差し出す。 「ほら、ちょっといかれた所もあるけど、この程度ならおおむね平気そうでしょ」 「でも回復はしないんだね」 「ええ。完璧にリジュネで拮抗って訳には行かないみたい。アーヴァインたちは? 体、変になってない?」 「変といえば変かな。喉がざらざらするんだ。出血はないけどね。それに、体が少しずつそれに馴染んでいっているのが分るんだ。そのうち平気になると思う。キリエも、馴染めばもう少しマシになるんじゃないかな。フィールもそんなものだと思うよ。いまは情報を集めに行ってるから、もう少ししたら帰ってくると思う」 「そか。今回私役立たずでごめんね」 「気にしないでよ。僕達は仲間じゃないか」 「……そうね」 何度言われてもうれしい言葉だ。 「僕ら三人はこの世界で運命共同体だ。キリエが戦えないなら僕達が戦えばいい。もともとキリエは後方支援型だろう?」 「そうそう。後方支援の広域支援型。まあ武器を持って戦ってもそんじょそこ等に負ける気はしないけど、基本的に後衛だし」 「それに、キリエにはキリエにしか出来ないことがある」 心が弱った時、たった一言で救われることもある。 「とりあえず、情報の交換はフィールが帰ってきてからにしよう。そう急いでもいないし、一度にやったほうが効率がいいしね。それにキリエ。君はもう少し休んでいた方がいい」 「え? もう大丈夫よ?」 「それでもだよ。念具は体の傷は癒しても、心の疲れは取らないんだからね? いきなり色々あって、ビックリしただろ?」 「うん」 「なら、休んでいること〜」 言ってアーヴァインはキリエの掛け布を引き剥がす。 下着姿だがそれがどうした。 何泊も野宿をしたり、それこそうん十年一緒にいると、あまりそういったことが気にならなくなる。 そんなことよりも言っている事とやっている事が違うじゃないかと抗議をしそうになって、やはりまたその抗議を口にする前に空いていたベッドから汚れていない賭け布を持ってくるアーヴァインを見ておとなしく横になるキリエ。 未使用シーツの暖かな太陽の香りと、窓の外から入ってくる安心できる喧騒。 そして陽気に、確かに疲れていたんだと自覚して、キリエは目を閉じた。 |