栄光を掴む髭を毟り取れ!!  8



 見ている事しかできないというのは、何て心の痛む事なのだろうか。









 とても静かで、けれど彼らはうるさく。
 それ以外に音なんて存在しないのに、彼らがあまりにもうるさいから彼らがなにを言っているのか聞こえない。

 恐らく聞こえているのはあの二人の焔だけ。
 聴覚から嗅覚まで並々ならぬ能力を持つSeedたちですら、彼らの言葉を音として以上には理解できないのだから。

 激しい剣戟の音。
 鋼と鋼がぶつかり合う音が激しく鼓膜を震わせる。
 もっと近くで聞いて居たら鼓膜が割れるのではないかというほどに。
 その合間に二人は吼えるような言葉を口にして、それが彼らに届く前にまた剣戟の音を重ねてしまう。

 ガイが刀に手をかける。
 柄を握って、足に力が篭りだす。

 僅かにうつむいたジェイドの手は、ずっと眼鏡に触れたまま。
 ポケットの中に隠されたもう一方の腕は、いつでも槍を放てるように準備されているのだろうか。

 アニスのトクナガは既にビッグサイズで待機状態。
 今にも唸りをあげそうであるし、ナタリアはアッシュを信じている、と言っていいのだろうか。
 弓は握っているが矢には手をかけていない。



 そしてティアは――武器を構える事もなく、じっと、可能な限りに目を見開いて、二人の焔の戦いを見つめていた。














「物分かりのいい子ってさ〜」

 緊張に水をさすのん気な声が聞こえた。
 その声にはっと正気に返るかのように身じろぎするルークの仲間たち。
 注目を集めたアーヴァインはと言えば、その眼差しはまっすぐにルークたち二人を見ている。

「見てるこっちの方がなんだか痛いよね〜」

 つられるようにまたルークの仲間たちも鋼をぶつけ合うルークとアッシュの方へ眼差しを戻した。

 物分かりのいい子、といえば、彼らには髪を切ってからのルークが思い浮かぶ。
 見ているこっちが痛いほど、何もかもを飲み込んでいく子供。
 吐き出せばいい事さえ飲み込んで、死に至ろうとしてそれも秘めている。

「アッシュがさ〜、小さい頃。この僕を差し置いてガイラルディアを誘って屋敷を抜け出した事があってさ〜」

 のん気なのん気な語り口に、ルークの仲間達の内にイラっとした雰囲気が高まる。
 けれどそんなもの知った事かとアーヴァインは言葉を続けた。
 銃口は下ろしてあるが、剣でも抜こうものなら抜ききらせぬ内に銃撃によって弾かれるだろう。
 見ていない事がイコール無関心ではない。
 油断でもない。

「ガイラルディア・ガラン・ガルディオス。ファブレ家に恨みがある者って言うのは、調べがついていたから、あんまり近づかせないようにしていたのにさ。何時のまにか兄のように慕っていて」

 語るアーヴァインの顔にはかすかな切ない微笑が。

「ガイラルディア。君は年の近い人間としてアッシュの近くに居た。だから知っているだろう? アッシュが大見得を切る影で、どれほどの努力を重ねていたのか」
「……ああ」
「復讐に曇った目でも、君はそんなアッシュを見て何かを思ったはずだ。まるで自分に言い聞かせるようにアッシュを憎んでいた君。嫌いって、憎いって言わなきゃ、やりきれなかったんだろう? 幼かったとはいえ確かに愛された記憶を持つ君と、全てそろっているはずなのに愛される事を知らないアッシュ。憎まなきゃ生きていけない。だから君は自分の心の揺らぎに蓋をした」
「ああ、判ってるよ! 今ならな」
「アッシュは、あの時からも時々こっわ〜い目で見られているのも知っていたんだ。けど、あの家は物質的には裕福だったけど、決定的に心が足りなかった。僕がいっぱいいっぱいかわいがってあげたけど、父親にもなれないし、やっぱり年齢的に友達にもなれなくて。アッシュは危ないって判ってても、ガイの事が好きだったんだよ。僕も思わず嫉妬しちゃったね」
「ねえ、心が足りないって、どういうこと?」

 突き返されるのを覚悟でティアが口を開いた。
 だが思いのほかあっさりと答えは返される。

「ルークのときもそうだった。あらゆる物が手に入る環境で、あそこは愛情だけが与えられない」
「シュザンヌ夫人は、過保護なくらいだと思いましたが」
「二言目には、可哀相な子なのです、って口にする母親かい? 哀れまれて子供が嬉しい筈ないじゃないか。親は哀れんじゃいけない。他からの哀れみから子を守るのが親の務めだ。親の哀れみは何より子供の心を縛り付ける。自分は、親にすら哀れまれるような人間なんだって、ね」

 ギリ、とアーヴァインは歯を噛み締めた。

「ただ抱きしめて、安心させてあげればよかったんだ。偽りでも愛しているって口にするならね。君達だって、小さい頃に誰かに頭を撫でてもらったり、抱きしめられたりしたら安心しただろう? 手があるなら、百や千の言葉よりただ温もりを伝えてあげればいいんだ」

 覚えのある者たちが往々に頷く。

 孤児ではあったが、孤児院時代には寂しくはなかったとアーヴァインは思う。
 同じように孤児である仲間達と、頭を撫でて、精一杯抱きしめてくれる優しい黒髪の魔女がいた。
 スコールが独占する! と不満を覚えはしたが、愛し方を知っている姉のような人物が居た。
 彼にとってむしろ孤独を覚えたのは養子に出されてからだった。
 どうにも馴染めなくて、だからと言ってこれと言った反抗をするでもなく、ガルバディアガーデンが出来てからさっさとガーデンに居を移して、仮面をかぶり、ひたすらに孤独を溜めていった。
 顔も良かったし、フェミニストだ。
 女生徒には人気があったが、彼はおどけてごまかした。
 思春期真っ只中。
 付き合いを申し込まれれば心が揺れないわけでもなかったが――彼は意外とそういうところで潔癖症だった。
 ガーデンに彼等が、記憶をなくした幼馴染達が来て、彼らと一緒に旅をして――大切なまま先生と敵対して。

 手のひらとふくよかな抱擁をくれたママ先生。
 そうして彼はやっと、養家で与えられた千の言葉より、たった一度の誰かの抱擁が欲しかったと知ったのだ。

 養家で投げつけられる、孤児と言うことに対する哀れみの視線が何よりいやだったのだと、知ったのだ。

  「……ふう。熱くなちゃったね。とにかくさ。僕は、ガイを近くに寄らせたくなくてアッシュに言ったんだ。ガイ・セシルの本名と、まあ、ファブレ邸に来た目的をさ。そしたらアッシュ。憮然としながらも言ったんだ。『ファブレの家は国の剣だ。……恨みを買わないはずがない』仕方がない事だって、ね。僕としてはすぐにでもガイラルディア・ガランを排除したかったのに、そうも出来ない」

 昔のアーヴァインの葛藤を聞いて、キリエが笑いを押し殺して肩を震わせる。
 それを睨みつけて、けれどすぐに肩をすくめて溜息に変える。

 何時までたっても、アッシュ優勢。
 追い込まれているルークが必死になって防御に徹する様子を、誰もがはかはかとした面持ちで見つめている。
 どちらにも注意を向けなければならないのは大変だろう。
 ルークの事も見逃せない。
 けれど、Seedたちから完全に意識をそらす事もできない。
 その手に持つ武器が、何時牙を剥くとも知れないから。

 その内心を知ってか知らずか――恐らくは知った上で、アーヴァインの口調は殊更にのん気だ。

「恨みを買うのも当たり前だって、他人のあらゆる感情に、もう諦めがはいっていた。何て子供だろうって! 僕は思ったね〜。アッシュは天才ではなかったけど、賢い子供だった」

 いっそそんな賢さ無い方がいいと思うくらいには。

「バチカルで、ベルケントで、大人達が囁いているのをあの子は聞いた。第七音素意識集合体の完全同位体。人の皮をかぶっただけのモノ。たまたま人の形をして生まれてきただけのもの。人の姿をしているけど人じゃない。どうせ預言に死を詠まれているから、せいぜいそれまでに研究成果を搾り取ってやろうじゃないかって。キムラスカ上層部もそれを黙認していた。大人は、子供だからってすぐに侮る。アッシュは理解していたよ」
「道具か。兵器か。偶像か」

 超振動の研究道具か、戦争の大量破壊兵器か、あるいはローレライの完全同位体としてキムラスカに繁栄をもたらす偶像となるか。
 何にしても、それ以外にしても、結局ろくでもない。

「バチカルの、彼の目を離れたところで大人と言う生き物はどうやって彼の超振動を戦争に使おうか。反抗させないためにはどうすればいいか。そんなことばかり話し合っていたわ。子供には声は聞こえなくても、有象無象の雰囲気には敏感だもの。彼は己が、このオールドラントで、永遠に異端である事を知ってしまった。いいえ、異端にされたのかしら」

 預言がなければ、あるいは知らずに居られたのかもしれない。
 けれど、子供は自分の異端性を自覚しながら必死にぬくもりを求めていた。
 その時間をキリエは知らないが、既にこうして語れるほどには、アーヴァインのもたらした事実が、真実がキリエの中にはある。
 アーヴァインの映した撮影機の中にあるバチカルの裏側。
 これで何人蹴落とせるだろうかと、キリエはうっすらと笑った。

「なぜ、ルークがアッシュを慕うか、考えた事があるかしら」

 問いかけと同時に眼差しを人々へと下ろす。
 さあ、判りません、と応える人々。
 ああ、何故判らないのだろうかと。判らないからこそ人なのだろうかと。

「私たちの知る限り、アッシュは苛烈なほどにルークを罵ってばかりでした。何故ああも信頼するのか、私にはわかりませんね」
「なら、少し考えてみればいい。鳥かごにとらわれて自ら飛ぶ事を知らなかったルークを無知と罵り、教える事を諦め、隠し事ばかりだったあなたたち。もし私がルークだったら……まず慕わないわね」
「だがそれはアッシュも一緒じゃないのか?」
「いっしょ? 本当に?」

 完全な相互理解などありえないから理解と共感を得ようとする。
 そのために人は言葉を持った。
 けれど、人にとって本心を語るのは凄く、怖い。
 ほらこのとおり。
 彼らには通じていない。
 なら、言葉を解さなくても根底が通じてしまう者たちが寄せ合うのは通りだろう。

「アッシュはルークにとって、初めての峻烈な真実だった。二人の間を繋ぐ回線に偽りは生まれない。アッシュの目と、耳と、意識を通してルークは真実の世界を見た。初めて、誰に無知を嘲笑われもせず。洗いざらい話すことが信頼だと? 馬鹿な。なら貴方達にどれほどの信を置ける? あらゆる秘密を包む者たち」
「それは――」
「何の言い訳も必要ない。ここに並べられるのはただの真実。それに……」
「それに、なんですか」

 まだあるんですか、とでも言いたげなジェイド。
 面倒なのではなく、聞いていて耳が痛くなってきたというその表情に満足を覚えるキリエ。
 彼女はジェイドの事ももちろん好きだ。
 ただだからこそ、好む者に愚かではいてほしくないし、ジェイドの事もアッシュの事もルークの事も好きだからこそ、相互理解を深めて欲しいとも思う。
 誰かが間を介さなければ、どちらも語らず、ただすれ違うだけだろう。

 知らせる事が友好を深めることにつながらなくてもいいのだ。
 ただ、知らずに居る、知らないものが勝手を言う事に腹を立てているだけで。

「アッシュは幾度もルークを罵った。けれど、一度でもアッシュが、アクゼリュスの事を引き合いに出した事があったかしら」

 間合いを取ったアッシュとルーク。
 お互いに呼吸は荒く、互いの耳にはそれぞれ自分の呼吸の音しか聞こえていないかもしれない。
 体力は有限だ。
 戦いながら叫び続けるものだから、尚の事消耗は早い。
 しかもその内容は平行線をたどり続けているようだった。
 もし、望む言葉を引き出せたなら、その次点でこの戦いは終わっている。

 戦いは時間が絶てばたつほどに泥臭くなっていく。
 がむしゃらになっていく。

「僕がいなかったら、って思う事がある。どこかにありえたIFだ」

 パラレルワールドが存在しているのなら、やはりどこかに救われないままのアッシュが居るのだろうとアーヴァインは思う。
 自分たちが今の世界に辿り着いたのは多くが偶然だ。
 無限の世界があるのなら、自分が居ない世界の方が、アッシュが孤独である世界の方がきっと、はるかに多いに違いない。
 全てを救えるとは思っていない。
 だからこそアーヴァインは、今このときの、目の前の子供達を大切にする。

「バチカルの屋敷は物質的にはとても豊かだ」

 酸素以外は、ですね。とフィールが小声で呟いたが、幸いにも誰の耳にも入らなかった。

「だけど、いずれ捨てる子供だからと子供を見ないようにする父親、二言目には可哀相な子なのです、って言う素養のある母親。周りはイエスマンのメイドや使用人。同年代の友人は無し。ガイラルディアは駄目だ。年は割りと近いだろうけど、結局立場は使用人。主をしかりつける事が許されるはずもない」
「体は育つとしても、情操教育の面では駄目ね。何もかもが上滑り。アッシュのところまでは届かない」
「そんな事! アッシュは、幼いころから国の未来を憂えて幼いながらも国政に対する持論を持つほどの子供でしたのよ?」
「IFだ、と最初に言ったはずよ。ありえたかも、知れない事」

 いいわね? と念を押してから続ける。

「私達はアッシュを賢い子だと評価した。だからこそ勘違いが深まるのよ。自分から愛情を強請れるような子供だったら良かったのに、賢いから地位とか立場とか、自分がなんであるのかを理解してしまえた。愛された記憶のない子供はどうして人を愛していいのかも判らないのよ」

 出会った頃の、リノアやスコールのように。
 愛情の見えなかったリノア、愛された記憶を隠されたスコール。
 どちらも愛する事が判らなくて、愛されたいと求めた。
 後に愛された記憶を知った二人は、愛されるより愛したいと、願えるようになった。

「賢いから、周囲が自分に求める事がわかるから、傍目には判らない。けれど、愛されない子供の情緒は酷く未発達で不安定になるはずだわ」
「そしてアッシュは誘拐された。僕が居る居ないに関わらず、アッシュはこの年の前後には誘拐されていただろうね。そして時間は流れて、十七歳のとき、ユリアシティでアシュとルークは始めてまともに言葉を交わす。その時のアッシュは、どんな子に育っていると思う?」
「想像も……つきませんわ」
「わからねぇな」
「恐らくきっと、こういうわ。『こんな屑に、名前も居場所も奪われたかと思うと』ってね」
「随分と確信があるのですね」
「それがヴァンがアッシュを向かせたかった方向だから。ルークに名前も居場所も奪われた、そうして憎めって、ね」
「また、ヴァンですか」

 終末思考を掲げるヴァンデスデルカにアーヴァインもキリエも同情の余地はない。
 どんな過去を抱えていても、それは他者を貶める許しにはならない。

「そしてあなたたちは、幾度も彼とすれ違うたびに、やがてこう言う筈よ。『帰ろうと思えばいつでも帰れたじゃない、それでルークに当たるなんてお門違いじゃないの?』」
「今度はアニスのマネですか」
「突っ込まないで。恥ずかしかったんだから」

 驚くほど似てなかったと内心赤面のキリエ。
 心拍数は1,5倍。
 早死にする。

「確かに、そう思いますね。幼い時ならともかく、神託の盾に配属され任務に赴くようになったときからなら、隙を見て抜け出してどこかに保護を求めるくらいは出来そうですが」

 ジェイドのその言葉にやっぱり、アーヴァインは思った。
 誘拐犯と被害者の間に起こる奇妙な心理現象についての研究はされていないのだと。
 そもそも誘拐事件の解決率が低ければ研究も何もありはしないが。

 キリエの世界ではストックホルム症候群との名で呼ばれ、後にキリエが移り住んだアーヴァイン達の世界ではデリングシティ症候群と呼ばれる。

 ビンザー・デリング終身大統領が排されてのちも割りと長い間デリングシティだったガルバディア一の都市。
 そのホテルで起こった誘拐、立てこもり事件の後に一時期話題を攫った心理劇だ。

 詳しく知っているわけでもないし、理解しているわけでもないが、知識としての蓄えはある。

「多くの事実に基づいて、それは無理だと僕は答えるだろうね」
「何故です」
「誘拐犯と被害者の間には、多くの場合初めは恐怖から始まる不思議な心理状態が発生する事がある。まず、被害者は誘拐された事に恐怖する。抵抗したり暴れたりすると暴行を受ける。痛みはとても有効に人の心を支配するからね」

 心をすくませる事ができれば、自発的な行動も封じられる。
 逃げる、と言う気持ちそのものを封じてしまう。

「で、監禁されるとある一定範囲での自由が与えられることが多い。たった一つの室内を自由に歩く。自由にトイレに行ける、そんな程度の自由だけど、完全に拘束されていた頃と比べると人はその程度でも開放感と、安心感を得てしまう。行動は監視され、制限はある。与えられた自由だって、トイレに連れて行くのが面倒だとか、その程度の理由だ」
「それでも被害者は安心するんです。すぐに殺される事はないだろう、って」

 仕込みブーツを鳴らしながらフィールはキリエの隣に寄り添った。
 立ち位置に迷った末の結果だったが、二人が並ぶとなかなか絵になる。

「反抗的であることは得策ではありません。カッとした犯人にぶすっとやられてはたまりませんから。反抗や嫌悪で対応するよりも、協力や信頼、好意で対応するほうが生き残る可能性が高くなる。当たり前ですよね。気に入らないものを側に置こうとは考えないでしょうし。人質は犯人に歪んだ共感を抱きます。少しでも気に入られるために。監禁生活の中では、人間は犯人と自分、あるいは自分たちしか居ないんです。同時に、監禁、軟禁されている状態を自分で選んでいるんだと、それが日常なんだと摩り替える事でストレスや恐怖による精神崩壊を防ぐ。それは、例え成人であっても起こるごく自然な防御反応です」

 死にたくない。
 それは人の本能だ。
 感情が正常に働いている人間は時に死後を想像し、死者をいたみ、そして死を恐怖する。

「自分を誘拐した――監禁した犯人に共感するなんて信じられないと思うでしょう」
「ええ、そうですね」
「ですが実際、時間の共有の中で自分を助け出そうとする人々の事を共に憎む事もあります。現場に踏み込めば、要求を呑まなければ、諸共に自殺するぞー! って、言われていれば、人質にとっても救助を試みるケイ――」

 カン、と言いかけて止まるフィール。
 そういえばこの世界、どちらの国にも警察組織が存在しない。

「兵士達は悪となるわけです。だって、踏み込まれれば殺されちゃいますから。まあ、これは一般的な監禁事件の話ですけど、不思議な事に犯人と人質はそのうちに人生相談までするようになる事が稀にあります。ではここで、アッシュの場合のIFを、考えて見ましょうか」

 ふむ、と頷くジェイド。
 他の人々も考えてはいるようであるが、まあ想像できないだろう。
 Seedたちの世界でも、これは想像ではなく不幸な事に重ねられた犯罪の果てに研究されたものだ。
 経験の無い人間には思考は出来ても共感はなかなか出来まい。

「当時アッシュは、十歳です。賢くはありますが十歳なら十分無力な子供となりえるでしょう。力を持つ大人達と比べると、自分が無力であることを理解してしまえる賢さでもあります。しかも、身分や立場ばかりが見られる環境、親の目すら自分を見ない環境。子供は常に、自身がそこに存在しているのかと、不安になることでしょう。そこでヴァンデスデルカの登場です」
「栄光を掴み損ねた髭眉毛」
「そう、その髭眉毛が……キリエ」

 軽くキリエの事を睨みつけて、小さく息をつく。
 そしてフィールは再び前向いた。

「ヴァンは、アッシュに吹き込みます。名前も、家も、親も。自分そっくりのレプリカが奪うのだと。不安を増長させます。アッシュはきっと思うでしょう。そしてヴァンにも言うはずです。ナタリアが、両親が、もしかしたらガイラルディアが、自分ではないと気がついてくれるはずだ、と。ヴァンはすぐには否定しないでしょう。そして見せ付けるはずです。両親やナタリアが、何も気がつかず記憶を持たないレプリカにルーク、と呼びかけるところを」
「希望は人を動かす力となる。けど、希望を打ち砕かれたときの絶望は大きいわ。時として絶望感は人を殺す。学習性絶望感と言う言葉があるの」
「絶望を、学習する、って事かしら」
「そうの通りよ、ティア。悲しい事に人は絶望すら学習する。あるいは、ルークが自分の価値を貶めて自分を守るように」

 自分の価値を、存在を最初から低く見積もっておけば、もしまた捨てられても価値が無かったんだと思い込める。
 少しだけ、恐怖を薄めてごまかす事ができる。

「しっかりした風に見えて、その実自己肯定感の足りない子供であるアッシュは、しっかりとした自己の確立が為されていないはずです。ヴァンの言葉は容易にその隙間に入り込むでしょう。恐怖を憎しみと摩り替えて、自己を正当化する。憎しみを糧として、明日へ生きる精神の柱とする」
「ねえ、あなたには覚えがあるんじゃなくて? ガイラルディア・ガラン・ガルディオス。あなたのルークたちへの憎しみもまた正当なものではない」
「まあ、な……」

 決まり悪げに頭をかくガイ。
 子供の当時は憎まなければ生きていけなかったのだろう。
 だが、二十歳を過ぎてまで戦争責任を個人に持ち込むのは社会的に頂けない。
 そもそも親の責任を子に求めるのか。
 などと色々あるが。
 戦争は一人でも起こせるとはよく言うが――基本的には国家間の争いだ。

「果てに、二人の焔は互いの命を喰らい合う事になるでしょう」
「悪いのは全て大人です。人の系譜とは愛の系譜です。犯罪の正当化はしません。ですが、子供だから、というだけで、すべからく守られるべきで有りますしそう有るべきなのです。体が、と言うよりは、むしろその心が。大人には、その成長を見、守り、愛情を注ぐ義務があります」
「もしかして、だから僕を拾ったとか言う?」
「ガーデンは魔女が育んだ庭です。そして良き魔女はすべからく愛を継承し、愛の守護者、魔女の騎士を得ています」
「言ってて恥ずかしくない?」
「ええ、いまのが現在の魔女の騎士の耳に入ればガンブレードを持って追いかけられるぐらいには恥ずかしいです」

 その言葉に、ガーデン組みの残り二人の脳裏には、ガンブレードを振り回しながら楽しそうに逃げるフィールを追いかける図が浮かぶ。
 すぐにでもそのフィールの位置を自分に置き換えられそうで、あまり笑えなかった。

「ですが、臆病な愛は誤解を生みます。僕達はそれを望みません。愛を語るのに何を恥じる必要があります!!」
「ああ、もうわかったからさ」
「ならいいです。あ、シンク、私達はあなたの事も愛してますよ? 欲しいと言っても、哀れみなんて一欠けらだってあげません」
「……うるさいよ」

 ふい、と顔をそらすシンク。
 その後頭部に微笑を投げかけるフィール。
 まだ名を与えただけではあるが、確実にこれから何かしらの関係を築いていこうとしている。

「とにかくですね、ありえたかもしれない可能性については、ご理解いただけたでしょうか」
「ええ、そうですね。あくまで、可能性を、ですが」
「OKです。では、現実にアッシュの身に起こった事を行きましょう。アーヴァイン先輩?」
「うん」

 頷いてアーヴァインは息を吸った。

 Seedたちにとってもても、聴衆である人物達にとっても、真剣でありながら大分ふざけた話の内容に、聞き入っている。
 犯罪心理学などの学術研究が進んでいるとは思えない世界においては、なかなか興味深い話が多かもしれない。
 それと、二人の戦いがほとんど硬直状態にあるというのも大きな理由だろうか。
 話のほうに割く意識が多少大きくなっている。

「帰ってきた子供は彼じゃなかった。そして二言目には可哀相な子なのです、って口走る母親の登場だ。まあ、復讐に燃えているくせに根っこがお人よしのガルディオスの遺児が、ルークの姿を見てゆれているのはちょっとすっきりした気分だったけど……」
「あなたは、一体なにが言いたいのですか」
「冥土の土産って言葉、知ってるかい?」
「ええ、あれですね。冥土の土産、といって長々と語っている間に周囲を包囲されたりして滅ぶ悪の親玉がよくるあれですね」

 ジェイドの皮肉にも一つ肩をすくめるだけで。
 まるっきり取り合わない。

 そうしている間にアッシュとルークは再び剣を交わらせ、ビクリとティアの肩が震えた。
 同じ流派を習っていたはずの彼らの剣技。
 だが今は、鏡のように重なることはない。
 ルークの剣はヴァンから手解きを受けた完全なアルバート流。
 対してアッシュの剣は、アルバート流を基にした既に新しい流派と言っても差し支えないだろう。
 体術も交える実践的なアルバート流の中から、更に速さと正確さを求めたアッシュの剣は、鋭くルークを翻弄する。
 疲れはあるのだろうが、呼吸を整えている間に少しはマシになったのか、少し、ほんの少しだけだが互いに動きがいい。

「とにかく、僕はルークの入れ替わりを黙ってみているつもりはなかったからファブレ邸を辞してアッシュを探しに行った訳だね」
「叔父様には告げませんでしたの? アッシュが、入れ替わってしまった事を」
「僕はバチカルの上層部を信頼していない。あるいはその子供がレプリカだとなったら、どうするのか。捨てるか? 殺すか。あるいはレプリカだからと言って、軟禁どころかもっと酷い環境で監禁されたかもしれない。人としてすら扱われずに。いつかアクゼリュスで殺すためだけに飼い殺しにしたかもしれない」

 問いかけたナタリアにも返す言葉はなかった。
 議会はレプリカよりもオリジナルを、と言って、ルークを死地に追いやった。

「で、ファブレ邸を出た僕はアッシュを探した。当時はまだアッシュじゃなかったけどね〜」
「あら、アーヴァインが探し始めた頃にはもうアッシュって呼ばれていたかもしれないわよ?」
「受け入れていたかどうかは別だよ」

 それもそうね、とキリエは頷く。

「まあ、はっきり言ってさ。あの栄光を掴む髭眉毛があんまりに用意周到なものだから、見つけ出すのには一年ぐらい掛かったんだよね〜。やっと誘拐の実行犯の足取りを掴んだと思ったら、とっくの昔に口封じされていたりしたし。でさ、見つかったかと思えば、地位と身分の庇護がなくなったせいで、バチカルにいた頃よりも酷い人体実験と薄暗い部屋での監禁。接触する人間を限って情報統制、薬物も使用した思考操作。僕さ、頭にきてその場で研究所一つぶっ壊したんだよね」
「アーヴァインの頭にそこまで血を上らせるなんて、そいつ等なかなかやるわね」
「う〜ん、僕も久しぶりだったよ。激高って言葉を体感するなんてね〜」
「それで、どうなさったのです」

 キリエと戯れると、耐え切れないと言うようにナタリアが先を促した。
 恋こうる人の過去話だ。気にならないわけはないだろう。

「研究所を一つ壊したついでに、髭眉毛を脅しつけて環境改善させて、感動の再会、って奴だよ。そして僕は聞いた。バチカルに帰るかってね。もし帰るって言ったなら、僕は万難を廃してアッシュをバチカルに返しただろうね」
「難と言えば、まずは栄光を掴む髭眉毛ですか?」
「それは難じゃなくて、排除確定だわよフィール。なんてったって彼の誓約者の誘拐の真犯人じゃないの。生かしておく意味がないわ」
「まあ、今まで生きて挙句の大騒動ですけど」
「……まあ、ね。で? アーヴァイン。アシュは結局なんて答えたのかしら」

 促されてアーヴァインはうれしそう、と言うよりどこか誇らしげだった。

「レプリカはどうなる? だってさ!! お兄ちゃんだと思わないかい?」
「お兄ちゃんかどうかはともかくとして、確かに、当時のアッシュ君程度じゃレプリカであるルークをかばいきれませんね」
「心理的環境はともかく、バチカルの屋敷に記憶を失ったルークとしているのなら、確実な庇護とある程度の学習――は逃げ出していたんだったかしら。でも、物質的なことなら不足なく与えられるわね」
「まあさ、戻ると言っても、レプリカルークの事は何とかするつもりだったけどね」

 ジェイドが眉を跳ね上げながら口を出す。

「それが、キリエがレムの塔で言っていた、聖なる灰とその同胞、がさす意味ですか?」
「よく覚えていたわね、ジェイド」

 その場の乗りと勢いで言ったような言葉だ。
 言った本人の方が忘れているような台詞だった。
 まあ、キリエ本人よりは言われた周囲の方が印象に残っていた、と言うのは納得できる台詞ではあった。
 初対面から呪われてあれ、である。
 これで印象が薄いとあれば、それもまた世界七不思議。

「世界にただ一人、人の体を介して生まれてきた人ではない生き物、と言われていたのはアッシュの心をさいなんでいた。どんな身体構成を持っていても、精神のあり方は間違いなく人間だった。そこに現れた完全同位体だよ。これでアッシュは一人じゃない。世界にただ二人になった」
「……あなたは、アッシュが帰るといってもレプリカに何かしらの保護を与えるつもりだった、と?」
「まあそういうことだね〜」
「何故ですの? アッシュがバチカルに帰っても、ルークの事は保護されるのでしょう? アッシュは、どうしてバチカルへ帰ってきてくださらなかったのでしょうか」
「秘預言を知った。そんなあやふやなものに、自分もレプリカも殺されてやるかって、力をつけるって言ったよ、アッシュは。剣術に用兵に学問に。そのためにヴァンを利用しようって事で僕は殺さなかったんだけど。でも酷いんだよね〜。食事には毎度毎度薬物が混入されているし、僕のところには飽きずに懲りずに刺客が送り込まれたし」
「馬鹿ね。その程度で私達を殺せる筈もないじゃない」
「まあそうなんだけど。僕はともかくアッシュは危ないじゃないか」
「それは、そうね」

 普通の感覚、から遠ざかってしまったと自分を戒めるキリエ。
 長生きの弊害かしらと内心で一人ごちる。

「一年間、痛みと恐怖と孤独と、まともじゃない環境の中で栄光を掴み損ねた髭眉毛に思考操作され続けていたアッシュだ。レプリカはどうなる。って台詞が出たときは感激したものだったけど、やっぱり認識がゆがめられていてさ〜。レプリカと自分の強い同一性の認識とか、場所自体はろくでもないとは思っていたけど、ガイラルディアとか、ナタリアとか。アッシュにとっての大切だった人たちまで入れ替わりに気がつかずにいると唆されつづけて、疑心暗鬼を増大させられて、もうちょっと発見が遅かったら危なかったかな〜、とか思うんだよね」
「あんたの口調には危機感がない」
「いとしのセフィーに似ただけさ〜」

 セルフィの名前を出されればキリエに後はない。
 セルフィーの事に関しては、何時でも何処でも強気に出られるアーヴァイン。
 羨ましいやらうっとおしいやらと言うのが仲間内でのほぼ共通した見解だった。

「でもさ、植えつけられた認識を壊すのって結構大変なんだよね〜。洗脳、じゃなくてマインドコントロールであるところが尚更厄介でさぁ。同一性の認識を壊すためにも、時々ルークの事を撮影に行っていたんだよね。どう? なかなかいい映像取れたと思っているんだけどな〜」
「いい映像って……なぁ〜」
「ちなみにもっと恥ずかしい映像はちゃんと秘匿コード掛けて保護してあるから、安心してよね」
「もっと恥ずかしい映像……ですの?」
「ああ。それこそ個人の尊厳にかかわりそうな奴はね」

 とりあえず着替えのシーンもボタンがはめられずにいる所からしか放映しなかったし。

「けどまあ、結局僕もわけありで、アッシュが十五になる前には居なくなってしまったんだけど、ね〜」
「仕方ない、とは言いたくないですけど、いずれ立ち去るのは異邦人の定め、ですからね。僕たちにはどうしようもない事です」
「そしてその隙を突かれて、と言うわけですか?」
「さっきの放送を聞いていたなら、判っているだろう? 放っとけば、と言うのは変かもしれないけど、僕一人居なくなったぐらいで立ち直れないような教育はしていない。けど、つかまった相手が悪かった。つくづく、殺しておかなかったのが悔やまれるよ」

 緊急コールで呼ばれて帰ったアーヴァイン。
 それで呼ばれる事などめったに無い。
 だから、もう少し時間があると油断していた。
 自分が居なくなってしまった時のための支度は、まだそろっていなかった。

 眼鏡に指を当てたままのジェイドの視線と、獰猛に笑ったアーヴァインの視線とがかち合った。
 フィールがにらみ合いの横から口を出す。

「責められるべきは誰か。と言うなら、僕は大人と世間。ついでにジェイド・カーティス氏を入れておきましょうか」
「……ちなみに罪状は?」
「わかりませんか?」
「ええ、思いつく事が沢山ありすぎまして」
「大人になる事を拒んだ罪ですよ」
「はじめて聞く罪状ですね」
「ええ。あなたとサフィール氏ぐらいしかすぐに思いつきませんし」
「私と洟垂れですか」
「そんなに同列にされるのがいやですか? 彼も、人格はともかくとして天才、と言う面ではあながちはずれでもないと思いますけど」
「いやなものはいやなんです」
「私はジェイドもピオニーも、サフィールも、みんな好きだけどな。今度はネフリーもいっしょに会いたいし。あ、でも、そしたら会合場所って牢獄?」
「……三十五歳独身」

 フィールがジェイドの経歴の一部を読み上げる。
 キリエの間抜けな言葉を切りたかったと言う思惑も仲間内には見え隠れする。

「年齢だけを鑑みれば、いい大人なんですから。大人が諦めてしまえば、子供はどうすればいいんです」
「……あなたたちは、なにを求めているのですか」

 繰り返される問いを、突き返す事無くアーヴァインは応えた。

「いっただろ〜? 僕たちは、ただ言葉が欲しいだけだって。ああ、ほら。決着が付きそうだ」

 彼の眼差しの先で、アッシュの焔のような真紅の剣がルークの剣を弾き飛ばした。
 たたらを踏むルークの足を掛けて転ばせて、ルークが剣を掴もうと手を伸ばせば剣を蹴り上げて遠くに跳ばした。
 その上で手首を踏みつける。

 つまるところは、体力の限界か。

 剣で語り続けるには体力が足りないから、これから本格的に怒鳴りあいにはいろうと言うわけだ。
 手首を踏みつけ動きを封じ、鋭い切っ先を喉元に突きつけ。

「てめぇは何時までも何時までも!! だから屑だっていってるんだよ!」

 そして剣は振り上げられ――振り下ろされた。

「「「ルーク!!」」」

 幾人ものたった一つの言葉が重なり響く。
 各々駆け出そうとする目の前で、フィールが鞭を振るった。
 キリエがナイフを投げて、アーヴァインが引き金を引いた。

 フィールの鞭がティアの両足を縛り上げて転ばせた。
 キリエの投げたナイフがガイの腰のベルトを切り落とし、そのあとの両手足を生きている縄が縛りつける。
 残りの縄はアニスのトクナガの足を固定してアニスはトクナガごと盛大にすっころび、アーヴァインの打ち出したトリモチ弾がジェイドをその場に縛り付けた。
 ルークに気をとられすぎたナタリアは疾風のごときシンクに弾かれて、ジェイド諸共トリモチまみれになった。

 その口に、フィールが丁寧にガムテープを貼り付けていく。

 キィン、と床の石材を弾き飛ばし、剣はルークの首脇に突き刺さった。
 がちがちに硬直しているルークの喉が、十秒も立ってからやっと呼吸を思い出す。

 勝敗は明らかだった。
 切り傷に打撲、軽度の捻挫とぼろぼろのルークに対して、此方はキリエにアーヴァインにフィールと、実力者たちに手解きをうけめきめきと実力を伸ばしたアッシュ。
 無傷とは言わないが、キリエに提供されている服の防御効果も相まって、ルークと比べればまるで軽症だ。

 アッシュは手袋の下で手が白くなるほどに剣の柄を強く握り、ルークに何かを囁いた。

「だって、俺は――消えるから……」

 隠そうと思っていたことが口を突く。

「知っている。このままビックバンが進めば、オリジナルの俺は一度死んでレプリカのおまえを上書きするんだろう」
「なっ……そんな! ジェイドはアッシュはきっと勘違いしてるんだろうって!!」
「ふん。何時までもそんな勘違いしているか馬鹿が」
「じゃ、じゃあアッシュは何で!」
「何で、なんだ?」

 わざとらしく聞き返す。

「何でそんなに死に急ぐんだよ!!」

 自分以外の誰かお思っての悲痛な叫びは、確実にこの空間を支配した。

「……俺が、おまえの記憶だけを残しておまえの体を上書きして、そこに俺は居ると思うか」
「なに、言って――」
「俺は、他人の七年分の記憶を抱えて正気で居られる自信は無い。ましてや今までどおりの自分で居られるとは到底思えない。人はチーグルほど単純じゃない」
「何言ってるんだよ、アッシュ……」
「勘違いをしたまま大爆発を起こそうが、その事実を知った上で大爆発が起きようが、そこにはどちらも居ないだろう。人格を抹消されたおまえ、記憶に侵食された俺」

 七年。
 屋敷の中で毎日が退屈だとわめいていただけの記憶ならどうと言うこともなかったかもしれない。
 そこにあるのは単調で薄い感情だ。
 人の記憶と言うのは感情によって強く脳に焼き付けられる。
 記憶を引き継ぐと言うのは、ある程度の感情まで連れてくる事になるだろう。
 屋敷に居るときの感情なら、記憶なら――七年そろったところでたいした事などあるまい。
 まして生まれて二、三年の事など、よく覚えていないことも多いだろう。
 だが、ルークは、人生の最後の一年でめまぐるしい世界を見て感情を知った。
 環境のせいで発達しきっていなかった精神にはそれがどれほど重く圧し掛かったことだろうか――。

 苦しいときに、差し伸べられる手のひらもなく。
 生まれたときから満足に抱きしめられる事も知らずに。

「それはおまえか? 俺か? ビッグバンの本質など、知っても知らなくても意味はない。どちらにせよ結果は同じだ。どちらも居ない。混ざり合った挙句どちらも居なくなるなんてごめんこうむる」
「だから……?」
「だから。なんだ。さっさと言え」
「だから、おまえそんなに死に急いでたのかよ」
「そうだな。一つになるなんてごめんこうむる、俺とおまえは別々の人間だから意味がある」

 完璧な相互理解なんてありえないし、あった場合も意味がない。
 互いに完全に理解し会える人間は個である事の意味がない。
 人は常に孤独の中にありながら人のぬくもりに安心を得て明日を目指す。

 一つになったところで、意味はない。

「ビッグバンは、起きてしまえば実質止められない。ただ死ぬだけではおまえの事を上書きしてしまう可能性もあった。レムの塔で、瘴気の中和のために全ての音素を拡散させてしまえばおまえに上書きされずに死ねるだろうかと思った」
「おま……おまそんな事のために!!」

 言葉にすればなんて陳腐なのだろうとアッシュは思う。
 これではまったく逆ではないか。
 ルークから言葉を引き出したかったはずなのに、決して饒舌とは言えないはずの自分のほうが言葉を引き出されている始末。

 今は時ではないと、出かけた溜息を飲み込んで再びルークに向き直る。

「一つにならないために、死ぬ事ばかり考えてきたが……逆もあるとは思わないか? レプリカ。俺が死んでおまえを上書きしてしまうなら、上書きする先を消してしまえばいい。そうすればどちらも個のまま、一つになる事はない」

 言ってギチリと掛けた床を鳴らして鋼をルークの首元に押し付けた。
 よく切れる刃を持つ剣は、ぷつりとルークの首筋に入り込み、血を流す。
 皮膚を割き、筋を断ち、もうあと少しで何の保護する物もない首筋の動脈を切り裂くだろう。
 息を詰めて、いやがおうにも緊張が高まっていく。

「俺のために、死んでくれるか? レプリカ」




 静かな声は、静寂に響き渡った。









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