混沌の悪夢を叩き割れ!!



 その日。
 いつもは赤い髪をなびかせて颯爽と街を歩く彼、アッシュはらしくもなく身を隠すように街中を歩いていた。

 こんな屈辱初めてだ!
 とでも言うかのように、顔はこわばり、身を隠すように、と言う行動とは裏腹に歩みは荒い。

 はやく、早く!
 と彼は周囲に目を配りながらも早足で進む。

 ここはケセドニアの街。
 あらゆる混沌を呼び込む場所。
 それだけが、救いと言えばそうかもしれないと彼は思っていた。




 食料品店から道具やに回り、一通りの買い物も済ませて後は帰るだけとなったアッシュ。
 まだ安心するには早い、と分っているが、安堵の気持ちを止められない。
 役目は果たした。
 これで早々この拷問のような精神的苦痛から解放されるはず、なのだ。

 街を出て、集合場所であるアルビオール三号機のところへ帰ろうとしたその時だった。

 不意に視界の端を、見慣れた朱が通り過ぎたのは――。




 びくり、と身を震わせるアッシュ。
 一度その朱に気がつけば、その周囲にはメガネやガキや女、ナタリアやガイがいるのが見て取れた。
 何が楽しいのかぺちゃくちゃとしゃべくりながら大路をアッシュのいる方へと向かって歩いてくる。

 普段でも特別会いたいと思うわけでは無いが、今は特別会いたくなかった。

 くるり、と踵を返して横道にそれるアッシュ。
 このままやり過ごすか、違う道を通ってケセドニアを出ようかと、迷ったのはごく僅かな時間だったはずだ。
 それなのに。

「アッシュー!」

 何故気がつく、何故呼ぶ!!

 普段であったなら、足を止めて振り返ってもいい。
 声を掛けて言葉を交わして、それで全く構わない。
 だが、今は駄目だった。

 相手は駆け足で駆け寄ってくる。
 駄目だ、逃げるしかない。

 決意したアッシュは、振り返る事無く猛然と走り出した。




「ア、アッシュ?」

 残念だ、寂しいな、と言う空気を漂わせて一言彼の名前を口にしたルーク。
 けれどどうしたのだろうか、と戸惑う気持ちの方が確かに大きい。
 あんなに全力ダッシュで逃げられるとは思いもしない。
 ちかごろの関係は至極、良好だったのに。

 罵られるならまだ判るような気もするが、相手の方が逃げると言うことがかつて有っただろうかと思う。

「まあアッシュ。どうしたのでしょうか」
「ふむ、なにか面白いことがありそうですね〜」
「おいおい旦那、アッシュも思春期なんだし、程ほどにしといてやれよ」
「でもでも〜、アニスちゃんもそう思いまーっす! あんなに一生懸命逃げられると追いかけたくなるって言うか〜」
「アニス……」
「テヘッ!」

 一通り背後の意見を聞き流したところで、ルークの中で何かが決意として固まった。

「よし、アッシュを追いかけよう!」
「それもいいでしょう。あれほど懸命になって逃げる理由とやらも気になるところではあります」

 悪趣味だな〜、と思いつつも逆らうつもりも無いガイがやれやれと肩をすくめる隣では、ナタリアが意気をあげていた。

「絶対に捕まえて見せますわ。このナタリア・ルツ・キムラスカ・ランバルディアの名にかけて!」

 と、アッシュにとっては泣き出しそうなほどはた迷惑な決意を固めていた。




 走り出して路地を二つ三つ曲がったころ、アッシュは追ってくる人間がいないことを確認して吐息をついた。
 普段なら息が上がるような距離でもないのだが、今日は別だ。
 特に驚きに心臓の鼓動が狂ったまま全力疾走したので妙に息が上がっている。

 大丈夫だ。
 ちらりと見られただけだから、恐らく気が付かれてはいないだろう。
 自分にそう言い聞かせると、アッシュは足取りを取り戻してケセドニアの出口へと向かった。

 その時。

「アッシュー! みーつーけーたー!!」
「なっ――!」

 遠くから。
 叫びながら全力で駆けてくるルーク。
 ひやり、とアッシュの背中に冷汗が伝った。

 まずい、まずい、まずい!
 と脳髄に警鐘が鳴る。

「まあ、ずるいですわルーク。アッシュは私が先に見つけましたのよ?」

 ナタリアの声が聞こえるに至って冷汗を出している場合ではないと悟る。

「おや〜? 先を越されてしまいましたねぇ」
「ぶー。ちょーっと残念?」

 この声が聞こえたときに、早く逃げなければ、己の尊厳に関わると悟った。

 逃げろ、逃げろ、逃げろと煩い声にしたがって、アッシュは駆け出した。

 ケセドニアの路地は細かく、複雑に入り組み場所柄もあってか三方を塞がれた程度では逃げ道には困らない。
 とにかくひたすらに、アッシュは己の直感に従って逃げた。


 そうまで必死に逃げられると、また追いたくなるのが人情と言うものか。

 アッシュのあまりに見事な逃走振りに闘争心を刺激されたルークはなおの事足に力を篭めるし、逃げられた、と言うことが傷心に触れたナタリアも俄然捕まえる気力が満ちてくる。

 大きいのと小さいのの二人組みは確実に愉快犯であるし、使用人は仕方なく付き合っている、と言う部分も大きいものの、確実に彼も面白がっていた。
 ティアに至っては、ルークが喜んで追いかけているからとりあえず追いかけてみようか、と言った程度のことだった。

「くっ――!」

 振り切れない追跡にあせりの声が漏れる。

「おーい、あっちに行ったぞー!」
「オーケー! お、見つけた!」
「ふふふふふふ、逃がしませんよ〜?」

 特に最後の声についてはいい年したオッサンが何を楽しそうに追いかけっこなんてやっているんだと言いたい。

「お待ちなさいアッシュ。何故逃げるのですの?」

 それは追うからだと言いたいが、追うのをやめたところで何があっても今日は逃げる。

「まーてーアッシュー!」
「ちょっと、ナタリア、アニス!!」

 ルークが好意を寄せているらしい女の台詞がこうなると最後の良心のような気さえしてきた。

「見つけたぞアッシュ!」

 とルークが前の道をふさぎ、

「おーっと、こっちは通行止めだぜ?」

 背後の道をガイに塞がれる。

「はぁ、はぁ、捕まえましたわ、アッシュ!」

 脇の道からはナタリアが息を切らせて道を塞ぎ、狭い十字路で、残りの道に目を走らせれば、妙な顔をした人形を巨大化させて道を塞ぎにかかるアニスの姿が。
 じり、と距離をつめてくる彼らにアッシュの逃走経路はふさがれた。

 四方に目を走らせて、どこかに隙は無いかと窺う。

 目をつけたのはガイラルディア。

「ちっ、どけぇ!!」

 押し殺した低い声で一言叫び、突進する。
 速さはぴか一だが、状況ゆえにか今は隙が多い。
 その隙を何とか潜り抜けられないかと選んだのが彼だった。

 おっと、とガイが構えたその目の前で、いきなり進路変更をすると右手の塀に手をかけて体を持ち上げる。

 驚愕に反応しきれないガイを見て、これで逃げ切ったとにやりと笑みを浮かべたときに。

「にーがーさーなーいーっ!!」

 何処にこんな根性を秘めていたのか。
 ルークがアッシュのコートにしがみ付き、アッシュはルーク諸共に地面に落下した。




 再びアーヴァインと出会ってからこの方、これほど深く人生の絶望を感じた日は他に無いとアッシュは真剣に思っていた。




 落ちたのをいいことに、コートから素早く掴む先を腕に変えるルーク。
 右腕をルークに、気が付けば左腕にはナタリアがしっかりと絡み付いて逃がさない、と意思表示する。

「なあアッシュ、どうして逃げるんだよ」

 絶対に言えるものかとアッシュは思った。





 ルークとナタリアにちくちくと言葉で逃走したことについて問い詰められている間、アッシュもただ黙っていたわけでは無い。
 ずっと腕を振りほどいて逃走の機会を窺っていたわけだが――時が発てばたつほど包囲は完璧になる。

 逃げられない。
 だが逃げたい。
 一刻も早く、この秘密が明らかになる前に。
 ルークとナタリアなら今はアッシュに話しかけることに夢中になっている。
 だが、あのメガネ野郎は――

 そう思って顔を上げれば、にやりと細められた眼差しとかち合った。

「アッシュ」
「……」
「おや〜? 黙ってしまいますか?」

 それでも沈黙を保つアッシュ。
 一声だって出すわけには行かない。

「まあいいですけどね。ところでアッシュ。あなた、少し小さくなっていませんか?」

 はぁ!? という素っ頓狂な声が、ケセドニアの路地裏に響き渡った。




「それに、少し輪郭が丸くなっているような気がするのですが、気のせいですかね〜」

 普段であればこの確信犯に向かって確実に罵り声を上げていただろう。
 堪忍袋の限界値は突破した。

「あれ? そう言えば……なんか、アッシュ柔らかくねぇ?」

 ルークがムニムニとコートの上からアッシュの腕をもみしだく。

「まあ、言われて見ればそうですわね」

 言ってナタリアもアッシュの腕をもみもみ。

「アッシュ、やつれたのか?」
「と言うより、筋肉が減っていませんこと? これではまるで……」
「女性のよう、ですか?」

 ジェイドがナタリアが言い控えたことをズバリと言った。

「ええ〜!? マジですかぁ〜」

 といって駆けよってきたアニスがまっすぐに伸ばした両の手を、座り込んだままのアッシュの胸元めがけて突き出した。
 回避する暇もあればこそ。
 むに、むに、と二回、感触を確かめるように握りこみ、しばし停止する。
 アッシュの額に青筋が立った。

「ええ〜!! うそ〜、これ絶対ナタリアより有るよー!!」

 ピシリ、と誰かが固まる音がした。




「うるせぇ」
「はぁ?」
「てめぇらいい加減にしやがれ!!」

 普段より一オクターブは高い声でアッシュはとうとう吼え声をあげた。

 ナタリアと、そしてルークであるが故に乱暴には振り払えなかった拘束を固まっているのをいいことに多少乱暴に振りほどくと着ていたコートも引き剥がす。
 自棄になった所業だった。

 コートの中身は胸の膨らみとウェストの括れを強調するような黒のタンクトップ。
 一回り小さめサイズなのがぴったりと肌に張り付いていて肉感的だ。
 鍛えられた筋肉の肉体美は何処へ置いてきたのやら、肩口や胸のところに控えめに添えられたレースが女性らしい雰囲気をいやましている。

 ロングブーツの上はホットパンツに隠されるまで日に焼けていない白い素肌がケセドニアの太陽に眩しく栄える。
 元が効率的に鍛えられた男性体だけあって無駄な贅肉は無いが、女性らしい適度なふくよかさは残っている。
 ぎょっと、数瞬全ての動きを止まらせたこの姿の効果を確認して、最も効果のありそうな人物のところへ突撃する。
 幸いにもその人物からメガネは遠い。
 チャンスでもあり、必ず逃げ切る覚悟も決めていた。

 ここまでさらしたこと自体、はじめの逃走の目的からすれば本末転倒にも等しいが、背に腹は変えられない。
 すでに胸まで鷲掴みにされた後とあれば今更姿の一つや二つ開き直りも生まれると言うものだった。

 とっ捕まって質問攻めにされるくらいならいっそのこと利用してやる。

 突撃する先には青い顔をするガイラルディア。
 その剣を封じる意味も篭めて利き手の方向から盛大に胸をぶつけるように抱きつく。

「ヒ、ヒィィ〜ッ!」

 女性恐怖症も多少は緩和したと聞いていたが、まだ不意の事態には弱いらしい。
 情け無い声を上げてガチン、と硬直し、ついでがくがくぶるぶると震えだす体を離すとポイと自分が今来た方向へ投げ飛ばす。
 狭い路地だ。
 それだけで十分通行の邪魔となる。

 とっさに我に返りアッシュを追いかけてきた面々に体当たりすることになったガイ。
 女性に抱きつかれた直後に再び女性の下に投げつけられて恐慌状態になったガイはいい壁役になってくれた。

「おわぁ! と、ガイじゃまだ!!」

 弾き飛ばされた先で邪険にされてくずおれるガイ。
 その隙に全力で駆け抜けながらアッシュはコートを羽織る。

 ついさっきの自分の声を聞き、もはや一声だってあげてたまるかと、叫びだしたいのを堪えて歯を食いしばり、アッシュはひたすらに走りぬけた。

 今度はケセドニアに留まるような愚かなことはせず、さっさと外に出ると人目の無い場所から空飛ぶ絨毯に乗り込む。
 アッシュ〜、と情けなく呼びつける声を尻目にそうしてたちまちにケセドニアから離れると、アルビオールへ向けて一直線に飛んだのだった。










「おい、てめぇら!!」
「あ、お帰りアッシュ〜」
「っく――!」

 自分のものとは思えない自分の声に苛立ちが増す。

 なんなんだこの甲高い声は!
 男が無理して裏声を使っているのとも違う。
 女が無理して声を低くしているのとも違う。
 どう聞いても女の声にしか聞こえないのだ!!

「ちゃんとお使いしてきた?」
「ああ、買って来たぞ。グミとボトルと食料品をな!」
「そんなに怒らないの。禿げるよ?」
「怒らない? ……ふざけるな!!」

 だん、とアッシュの拳がアルビオールの壁を叩く。

「なんなんだこれは! 挙句に服まで!! 何時から企んで居やがった、ああ?」
「チンピラみたいだよアッシュ。企みって言うか、むしろ最初から? 私の周りにいる男どもはとりあえず一通りこの悪戯の洗礼を受けているよ」
「……アーヴァインもか」
「もちろん」

 複雑そうな表情で顔をしかめるアッシュ。
 そのコートの前はきつく押さえられていていて全く素肌は見えそうに無い。
 使いに出て何があったのか、出る前よりもガードが固くなっている。

「ギンジ辺りならいつか女性にしてみるのもいいと思うけど、まあさすがにウルシーやヨークのは見たくは無いけど。アッシュは素材がいいからきっと綺麗になると思ったんだよね」

 醜い、と言われるよりは確かに綺麗と言われる方が良いが、だからと言ってこういう目にあいたいわけではない。

「まあ、アーヴァインやフィールなんかはだまし討ちだったけど。結構乗り乗りで楽しんでいたわよ?」
「本気か?」
「あの時は、アーヴァインとフィールと、後スコールも一緒に悪戯したんだけど、スコールはしこたま怒ったけどフィールとアーヴァインは楽しそうにバストタッチしあって遊んでいたわ」

 言葉をなくすアッシュ。

「それに、アッシュはだまし討ちじゃなくて正規の罰ゲームでしょ? 負けたが負けよ、諦めなさいって。諦めて、その女体化、私に堪能されなさい!!」
「断る!!」

 突如襲い掛かってきたキリエを避けて船外へ逃れるアッシュ。

「逃がさん!」
「大体、罰ゲームは、この姿で買い物に出てきちんと提示されたものを買ったら終わりのはずだろう! さっさとこの状態を解く薬をよこしやがれ!」
「だが忘れるな! 全ては私の意志一つであることを!!」
「くっ、この野郎!!」

 すらり、と剣を抜いたところでほい、とキリエが何かを宙に放り投げた。
 くるくると回るそれは見覚えのある――

「約束の解除の代物よ。チョコチップ風味のホルモンクッキー」
「テメ――」

 叫びながらもアッシュはそれを捕らえるために飛び上がる。
 逃がしてなるか。
 ケセドニアでアッシュを捕まえたときのルーク以上に根性を見せた。

 スライディングしてそのクッキーを地に落ちる前に受け止めるアッシュ。

「これでようやく――」

 と、そのクッキーを口に含もうとするアッシュにキリエは言った。

「その前に、着替えた方がいいんじゃない?」

 はた、と止まるアッシュの動き。
 今の服で男に戻れば、脱ぐに脱げ無い事態になるのは目に見えている。

「でも服は、ぜーんぶ、私が持っているけど!」

 言うや否や逃走を始めるキリエ。
 アッシュは手の中のチョコチップクッキーを握り潰しそうになるのを何とか抑えると、それをポーチにしまい立ち上がる。
 ぱん、ぱん、とうライディングしたときの埃を払う。
 そして深く深呼吸。

「待ちやがれキリエーーーーーっ!!」

 そしてアッシュもまた、猛然と走り始めた。
 僅かに離れたところで煽るように飛び跳ねながら手を振っていたキリエを捕まえるために。

「きゃー、あーれー。あはははは」
「待てつってんだろこのやろう!」




 怒りに乗せられていたアッシュが、服は買いにいけばいいのだと気がつくまでおよそ三十分。
 何故俺はこんな奴と行動を共にしているんだ?
 と深々と考えるときが来るまで、後およそ四十五分――。






 そして。

 今はルークたちの魔手を逃れたアッシュだが、結局のところいずれ出会ったときに質問攻めにされ、逃げた間に立てられたむやみやたらな憶測を片っ端から潰すのに手を焼くことになる。









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