ダアトの幽霊



 不意に、視界の端になにか乾いた土の色をしたコートが通り過ぎたような気がした。
 それを着ていたのは背の高い人間。

 通り過ぎるまで、意識の端にも登らなかった。

 ああ何故だろう!
 ここは一本道。前にも、後ろにも、開くような窓は無く、扉の一つもない。

 ああ、もしかしてあれが、――噂の……。



「き、きゃぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーっ!!」



 非常事態と間違われ、一時間ほどダアトを機能停止させるほどの悲鳴が響き渡った。











 ローレライ教団、ダアトには、ここ一月ほどにたった噂がある。
 長いイエローオーカー色の外套を着た男の幽霊の噂だ。
 通り過ぎても意識に残らない。
 はっと気が付いて振り向いたときにはもういない。
 神出鬼没で、何処にでも現れる。






「何のようだヴァン。急に呼び出しやがって」

 ローレライ教団神託の盾騎士団所属、アッシュ。もうすぐ十二歳。
 扱い、立場共に至極微妙だ。
 最近気に食わないことは、行動に監視が付いていることだ。
 今更逃げる気もないというのに。

「たいしたことではないのだが」
「くだらない事だったら呼ぶな」
「そういうな、アッシュ。……噂を、知っているか」
「噂?」

 新しい生活に慣れるのが精一杯で、とは言わないが、気にしたこともない。

「長いコートを着た長身の男の幽霊の噂だ。ここ一月ほどの噂なのだが――」

 時期と特徴を聞いて、アッシュは小ばかにしたように笑った。

「幽霊? 何を馬鹿をいってやがる」
「そう思うか? ダアトの内部でところ構わず目撃されているが」
「そういう意味ではない」

 んん? と、可愛らしげもなくまだ髭の生えそろわない男は僅かに首をかしげた。

「そもそも幽霊と言う前提が間違っている」
「幽霊ではない、と?」
「あいつなら頻繁に、俺の部屋に現れるぞ。もちろん生身でな」

 アッシュの部屋にはそれなりの手練を監視につけられている。
 アッシュの身に起こったこと、会った人物、尋ねてきた人物などは逐一報告されるようになっている。
 だが、いままでそんな男がアッシュに接触したと言う報告はヴァンの元に上がってこない。
 その監視を潜って、アッシュの部屋に現れる男?

 彼が興味を持ったのも、必然と言えるだろう。
 アッシュの前でこそ、幽霊男の話としているが、そのコートの色と長身には覚えがあった。

「アッシュ、その男に伝えてくれるか。私が会いたがっていると」
「ちっ。今度いつ来るかなんてしらねーぞ」
「構わん。会ったときに伝えておいてくれ」

 と言ったのだが、その男に引きあったのは翌日だった。






 年のころなら二十七、八か。
 茶金の髪に、青い目。噂どおりのコートを着た優男だった。

 とうてい仕向けた監視の目を潜ってダアト内を行動できる実力があるとは思えない風体をした男。

「僕に会いたがっているって、アッシュに聞いたんだけど」

 その男は噂にたがわず神出鬼没で――少し執務室を離れている間に、執務用のイスを占拠されていた。

「……ああ、そうだ。最近噂の、幽霊殿にな」

 少しの皮肉を篭めて言えば、その見覚えのある優男風の幽霊は慣れたしぐさで肩をすくめたのだった。








「それで〜? 僕をダアトに留めておきたいわけ? 手元において、監視したいわけだ」
「ふっ、そこまで言われては、今更詭弁を弄しても意味はあるまい」

 デスクの上に足を乗せる青年。
 わざとらしく椅子を軋る姿は余裕過ぎるほどで、いっそ挑発的だ。

「はっきり言って、お・こ・と・わ・り。だよ。僕は基本的に庸兵だけど、今はフリーなんだ。雇い主はいない。そして当分フリーでいられるだけの蓄えはあって、先に残すつもりはない。今の僕には金を詰まれたってここに留まる理由はないよ」
「……アッシュのそばにいられるぞ? そのために来たのではないのか。たしかバチカルのファブレ邸で使用人をしていたと思ったが? それに、私の研究施設と人員を殺したのもおまえだろう? 断ると言うのなら力ずくで拘束させてもらうが?」

 ヴァンの通告に、青年は呆れたとばかりにため息をつく。

「それこそ馬鹿なこと言ってるんじゃないよ。自力で僕の事を見つけられもしなかったくせに。しってるよ〜、ここ最近、噂の幽霊男に関して調査させていたの。見つけたら捕まえるように言っていたでしょ〜。ダアトの内部でなら、僕が騒ぎを大きく出来ないとでも思ったかい?」
「そこまで知れているか」
「僕は神出鬼没の幽霊男らしいからね〜。許可なんかなくても何処にでも現れるのさ。このダアトに、僕の行動を制限できる人間がいるのかい? いや、いたとしても、たかが一人の行動に振り回されていられるほど暇なのかい?」

 青年が報告書の束をデスクにたたきつけた。
 それはこの男に関すること、つまり幽霊に関する報告書だった。

「これは、痛いな」

 痛痒と思っていないことが伺えて、ため息と共に肩をすくめる。

「ところで貴殿は予言の事をどう思っている」

 その質問に青年は間髪いれず答えた。

「なにそれってところかな。僕は一度も預言を詠んでもらった事がないんだ。自分のことは自分で決めるさ」
「ならば、もしだ。預言に気に食わないことが読まれていたら?」
「捻じ曲げる。せっかく未来視してくれているんだから、利用しない手はないじゃないか」
「そう、か……」

 呟いて、考え込むヴァン。
 それに一瞥も与えずに立ち上がる男。
 堂々と扉から立ち去ろうとするのを、ヴァンの声が呼び止めた。

「なんだ〜い? まだ用があるのかい?」
「ますます貴殿のことが欲しくなった。どうだろう、アッシュの守護者殿。ローレライ教団、神託の盾騎士団の制服をまとってみないか」
「懲りない人だね〜。僕を引き止められるほどの魅力ある提案をあんたは出来るのかい」
「私に可能な限り条件は呑もう。それに、貴殿は秘預言を知っているか」
「もちろん」
「ならば知っているだろう? アッシュはあのままバチカルに留まれば、国によってアグゼリュスで殺されるのだと。私はアッシュをその預言から外そうとしているのだぞ。貴殿の思惑にも乗るのではないか」
「べつにあんたなんかいなくても、あの子をアグゼリュスで殺させる気はないさ」
「それは困った。取引の材料がなくなってしまう」
「ふーん」

 ヴァンを品定めするように上から下にと見る幽霊男。
 それに、ヴァンはしめたと内心で笑みをこぼした。
 とりあえず、引き止めることは出来た。
 何を望みとして言うのか、どこまでかなえられるのか。交渉しだいと言うところか。
 少なくとも興味を引かせることは出来た。

「僕に監視をつけないこと。誰にも属さない独自の地位を与えること。基本的に行動は自由であること。それから、神託の盾騎士団の服を着ても、僕は教団に忠誠を誓ったりしないよ? そしてもちろん、アッシュ。僕の守護する子供に害を与えることをしないこと。それをみんな呑めるなら、魔物の討伐くらいは手伝ってもいいさ。ただし、働いた分の報酬はもらうけどね」

 あんたの今の地位で、できるのかい、と挑発的に呟く。
 それに、ヴァンは笑みを持って答えた。

「全て、のもう」
「あ、あともう二つ」
「何だ」
「キッチンつきの部屋で、アッシュと二人になれること」
「……」
「渋るの? アッシュの近くにいられるって言ったのは、そっちじゃなかったっけ?」
「……のもう」
「じゃ〜、いいよ?」

 最後の条件については、かなり迷った。
 あまりアッシュに影響を与える人間を側に置きたくなかった。信頼も羨望も、あの超振動を扱える子供達からは全てを、自身が受ける。
 そうして使うつもりだったから。
 だが、あそこで呑まなければこの男には逃げられただろうと思う。
 とにかく、魚は網にかかったと、ヴァンは思った。
 引き上げるのに根気と時間は必要かもしれないが、かならず手元まで手繰り寄せると。

「ならば、仮初であるが今からは同士だろう。名前を教えてくれないか、幽霊男殿」
「アーヴァイン。アーヴァイン・キニアス。それが僕の名前だよ」









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